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ヨーロッパフットボール回廊『ボビー・チャールトンの思い出:イングランドのレジェンド逝く』

23・11・15
 上写真/高校選手権視察後の1992年1月11日、日本のホテルでくつろぐ故サー・ボビー・チャールトン氏(写真はいずれも伊藤庸夫氏提供)


 10月21日、イングランド1966年W杯優勝の立役者、サー・ボビー・チャールトンが2020年に認知症の診断を受け、マンチェスターの養護施設に入居していたが、残念なことに逝去された。享年86歳であった。

 ボビーは1956年マンチェスター・ユナイテッド(MU)ユースに入団し、トップチームの試合数652試合得点211点を稼ぎ、その時代のヒーローとして君臨。1966年W杯イングランド開催大会優勝に貢献、さらに1968年ヨーロッパ選手権では宿敵ポルトガルのベンフィカに4−2と快勝し、ジョージ・ベスト、デニス・ローと共にMUの3羽鴉の一人としてMUの黄金時代を築き上げたのである。その間には1958年2月6日、ミュンヘンで起こった飛行機事故ではMUの選手8名が死亡する惨事にも遭っていたが、九死に一生を得て入院生活の末復活した経歴もある。

 そのボビーと筆者の関係は1987年頃に始まった。きっかけは当時ボビーがトップリーグの選手、監督を引退、自分が育ったMUの育成システムを世界に広げるとして「ボビー・チャールトン・スクール(BCS)」を設立。8歳から16歳までの少年を対象にしてトップ選手に資する指導を始めたのである。

 当時筆者は日本の会社(三菱)の駐在員としてロンドンに勤務、併せJFAより元日本リーグ選手として国際委員の名を頂戴しており、The FAと当時のフットボールリーグ(プレミアリーグ設立前)とのコンタクトを担当していた。

 彼と会う機会があった時、日本にもこのスクールを紹介し、多くの少年たちを英国マンチェスターに、英語研修とフットボール研修の名目で夏休み中2週間のコースを紹介して欲しいと要請があった。そして任意ながら毎年15名程度のジュニアーユース選手を派遣してもらい、彼のスクールで研修させたのが彼との直接のつながりの始まりであった。

 その当時MUのユースに所属していたデビッド・ベッカムはBCSのテクニカル大会で優勝し、ボビーに請われてロンドン育ちにもかかわらずMUの練習場近くに下宿してMUユースに所属していた。そして彼らの年代は「MU92」の異名を取るほどに成長し、その後のMUのリーグ優勝に多大の貢献をしたことでもBCSの存在を高めたことは確かである。ネビル兄弟、ニッキー・バッド、スコールス、ギッグス、ベッカムがその主力選手であった。

 そしてBCSのプロモーションも兼ねて、ボビーは「ぜひ日本へ視察に行きたい。そしてユース年代のフットボールはどのようであるかを視察したい」と言ってきた。そこで筆者から92年1月全国高校選手権決勝戦を視察したらどうかと勧め、JFAの合意が取れ来日、筆者は通訳兼で同行した。

 試合は四日市中央工高対帝京高戦であった。TV局が試合後に「感想を」とマイクを向けるとボビーは「英国と比較するのはおこがましいが『School対抗』と見れば観客も入り興味ある試合であった。しかし、U18の試合と見れば『Students Game』の域から脱していない。ヨーロッパ、英国のU18はプロの予備軍であり闘う気持ちも違う、スピードも技術も比較にならない」と酷評したのである。

 世界を知るボビーならではの感想であった。「素晴らしい」という言葉を期待していたTV局のアナは絶句であった。ボビーは決して皮肉屋ではない。正直にありのままを述べたに過ぎない。この言葉と後にJリーグユース育成制度を発展させる金言になったことが今日の日本のフットボールの隆盛につながっていることは確かであろう。


 上写真/1992年1月8日、当時の国立競技場で高校サッカー選手権決勝を観戦する、左から筆者、ボビー、故高円宮殿下、妃殿下、故島田JFA会長(当時)、故岡野副会長(当時)


 そして日本にも1980年代後半からJリーグ構想が勃興し、アマからプロへフットボールが転換するエポックメーキングな時代に入り、その候補チームが片や南米、片やヨーロッパへプロ組織の構築のため選手の強化を兼ねてプロクラブとのタイアップを模索していた時期でもある。

 ヨーロッパへは三菱(レッズ)がドイツのクラブとのタイアップを、古河(ジェフ)が英国ウエストハムとのタイアップを、そしてマツダ(サンフレッチェ)が1989年にMUのレジェンド、上記ヨーロッパ選手権を獲得した時のキャプテン、故ビル・フォーケスを監督として採用、彼を介してMUへ選手を派遣し強化を始めた時期でもあった。

 そして92年にサンフレッチェは高木、前川、森保をMUへ派遣しトップチームの練習に参加、アマとは違うプロとはというテーゼを学ばせた。

 まず上記ビル・フォーケスを通じボビーにお願いし、そして当時MU監督であったアレックス・ファーガソンに依頼し彼らの練習参加が実現したのである。彼らはサンフレッチェ及び全日本代表選手として、またクラブ監督として、森保ジャパンの監督としてその後活躍しており、この研修がいかに彼らを成長させたか、わかるのではないだろうか。


 下写真/左から筆者、前川、ボビー、高木、森保(1992年11月8日、場所は当時の国立競技場)
 上写真/1996年5月、FIFA総会(スイス・チューリッヒ)での記者会見。左からJFA岡野氏、ボビー、川渕氏

 
 その後のボビーの日本との関わり合いは日本のW杯開催招致活動にある。93年Jリーグが設立され、フットボールのプロ化夜明けの時代が到来、次の目標は 2002年W杯招致となった。そこでまずこの招致活動には世界を知る世界的な人材をアンバサダーとして契約し世界へ日本のW杯開催をアピールする事が重要な課題となった。

 日本の開催地がそれぞれ誘致活動を展開した中で、開催地候補に立候補した大分県が筆者にボビーをアンバサダーに招聘したいと要請。大分県と広島サンフレッチェはキャンプ地として提携しており、その当時筆者はサンフレッチェの強化国際部長だったのでボビーに打診したところ、もちろんと快く引き受けてくれた。そして大分県でのBCSを開催し、多くの大分県の少年少女とのスクールを実施。ボビーは世界のトップの要人にも、そして市井の一般庶民、少年少女にも分け隔てなく節するまさに「Football Ambassador」だった。

 そしてその直後JFAもW杯招致のためAmbassadorが必要ということで、ボビーを任命、彼を中心に特にアフリカ諸国の日本招致をアピールする役割を担って、その活動に尽力を惜しまぬ働きをして頂いた。筆者もチェニジアでのキャンペーンに参加し、ボビーと共にボールを蹴ったが、ボビーのフットボールに関わる見識以上に万人に好かれる彼の人柄に敬服した。

 ボビーよ 安らかに!

 なお葬儀は11月13日(月)棺はMUの本拠地であるOld Trafford のスタジアムを経由してマンチェスターの教会にて行われた。


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08:JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
伊藤 庸夫