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ヨーロッパサッカー回廊『アーセン・ベンゲルの去就?』

17・03・16
 3月中旬までのプレミアリーグの結果は、イタリア代表監督から転身したコンテ監督率いるチェルシーが群を抜きトップ。バイエルン・ミュンヘンよりグアルディオラ監督を迎え入れ、前半戦は抜群の勝率でトップを走っていたマンチェスター・シティも、スパーズの後塵を拝し3位、そしてベンゲル監督21年目の名門アーセナルは、リバプールに得失点差でかわされ5位に甘んじている。

 アーセナルは1996年のベンゲル監督就任以降、97−98年、2001−02年、03−04年と3回のリーグ制覇はあるものの、既に13年もの間優勝から遠ざかっているのだ。FAカップこそ、最近では2014年、15年と連続優勝しているが、UEFAチャンピオンズリーグには1998年以来連続出場しているにもかかわらず、いまだ栄光を勝ち取ったことはない。2005年の準優勝が最高位である。

 そのアーセナルが、チャンピオンズリーグ準々決勝バイエルン・ミュンヘンと対戦し、アウエーで1−5の大敗、ホームでも同じく1−5と惨敗。トータル2−10と大人と子供の試合結果を演じ、ベスト8から脱落してしまった。

 優勝こそが監督の使命とするアーセナルにとっての屈辱の大敗である。怒ったサポーターは、今まで我慢に我慢を重ねてベンゲル監督を支持していたが、堪忍袋の尾が切れ『Wenger Out』のバナーも見られるようになった。そして『Wexit』のバナーも見える。これは英国がEUからの離脱を決めた際の『Brexit』をもじった「ベンゲル去れ!」あるいは「我々は去る!」の掛け詞でもある。

 現在のプレミアリーグの話題は、コンテ監督のチェルシーが優勝するのかではなく、ベンゲル監督がいつアーセナルを去るのかの話題に変わってきたのだ。

 ベンゲル監督がアーセナルに就任したのは1996年秋、日本のJリーグ、名古屋グランパスエイトの監督から電撃的にシーズン途中の入団。その後はベンゲル神話がプレミアリーグだけではなく英国のフットボール・カルチャーに大きな変革を持たらしているのである。その功績を幾つか挙げてみよう。

1.まず大きく変革させたのは「Sport  Dieting(スポーツ栄養)」を実施したことであろう。

 彼がアーセナルに就任して一番驚いたのは選手の『Drinking Culture』つまり練習後、試合後を問わず、選手がパブに集まり飲酒三昧、そしてカードギャンブルであった。トッププロアスリートがこのような状況で、身体的にも精神的にもトップコンデションで試合に臨めるわけがないとし、徹底的なDieting conditionを作り上げたのである。

 いわく、「試合48時間前からの飲酒の禁止」、「肉は牛、豚ではなく鶏肉、魚、野菜の摂取」、「試合後3日間はタンパク質(鶏肉、魚等)の摂取重視、その後は炭水化物(パスタ、米等)の摂取重視」である。実際、筆者がアーセナルの練習後、取材の際の食堂での食事メニューはパスタ、鶏肉、魚、野菜であった。

 就任後の1997−98年にプレミアリーグで優勝したが、その立役者は当時の4バックであった、トニー・アダムス(主将)、マーティン・キーオン、ナイジェル・ウインターバーン、リー・ディクソンの4人であった。

 彼らはベンゲル監督になるまでは、伝統的な英国プロフットボーラーであり、練習後、試合後のPubでの歓談は当然の行事であった。しかしベンゲル監督のDietingは強制的なものであり、半信半疑であった彼らも実施せざるを得ず、結果的には彼らが30歳台になってもチームの中心選手として活躍できたのは、ベンゲル監督の変革に従ったからであると言われている。ベンゲルが監督として、このDietingを実施しなければ、成しえなかった優勝であったと思われる。

 その後、この「Sport  Dieting」の考え方は英国のスポーツ自体を変革させ、その後のフットボールクラブ、選手の常識となり、今日のプレミアリーグの隆盛を招いた要因の一つとなっているのだ。

2.ハイバリースタジアムの移設、建設もベンゲル監督の提言により実施された。

 ベンゲル監督が就任した時代のアーセナルスタジアム(ハイバリースタジアム)は、駅そばの至便なスタジアムとして多くのサポーターからも愛されていた。しかしピッチは長さ100mしかなく、当時のプレミアクラブでは一番狭いピッチであった。

 ベンゲル監督はACモナコの監督時代にフランスリーグで優勝し(1988年)、その当時からワイドの足の速いウインガーを重視するシステムを取っており、長さが足りないピッチでの試合はどうしてもロングボールを多用するシステムとなるため、彼のスピードに乗ったパスワークでの展開ができず、早くからスタジアムの移転と正規の105mのピッチにすることをクラブマネージメントに進言していた。

 そして2006年、やっと地下鉄を挟んだ土地を確保し、現在の6万人収容のスタジアムを完成させ、正規の広さのピッチにしたのである。足の速い選手、ティエリー・アンリをモナコから獲得したのも、彼の好むシステムにマッチしていたからでもある。現在でもウォルコットといったウインガー・ストライカーを使うのも彼の特徴であろう。そう、グランパス時代も足の速い両ウイングを使った、典型的4−4−2システムで1995年の天皇杯を勝ち取っているのだ。

 この新しいスタジアムは、収容人員が50%アップしたことにより、プレミアリーグの放映権料の高騰とも相まってアーセナルの資産総額は約10億ポンド(1400億円)にも上り、経営的にも安定したクラブとして君臨しているのもベンゲルの功績であろう。

 彼の別称「Professor」もフットボールの監督、選手では稀なる大学出であり、ストラスブルグ大学の経済学士であることから由来している。

 しかし21年もの長期政権も、そろそろ終わりが近付いているのだろうか。

 年齢も67歳となり、チーム内からもストライカーのサンチェスが週給250,000ポンド(年収約18.2億円)の契約更改を保留したままであり、シーズン後には移籍するとの噂も出ている。また、ドイツ代表エジルも週給200,000ポンドの契約更改をせず移籍がささやかれている。

 一方ではベンゲル監督の契約も今年の夏に切れる。ベンゲル監督自身は、元マンチェスターユナイテッド監督であったアレックス・ファーガソンの引退72歳まで、まだまだ出来ると自負しているが、サポーターの支持が無くなればアーセナルの首脳は引導を渡すかもしれない。

 折りしも3月11日に行われたFAカップの準々決勝で、ノンリーグチームとしておよそ1世紀振りにリンコルンがベスト8まで勝ち上がり、アーセナルと対戦。この試合、アーセナルが負けることがあればベンゲルの更迭は必至と言われていたが5−0と勝ち更迭は免れた。

 しかし、もはやリーグ優勝の目はなく、せめてFAカップを取得しなければベンゲルのアーセナルも終わりを迎えるのではないかとメディアは騒いでいる。ベンゲル監督の去就も今年のFAカップ次第となってきた。

 筆者がベンゲルに会った最初は1991年モナコ時代である。まだ40歳の若手監督であった。その後サンフレッチェのバクスター監督が懇意にしていたことから、選手・コーチがモナコで指導を受けたことがあり、プレミア一のインテリ、ベンゲル監督の去就には個人的にも目が離せないのである。


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08    :JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
伊藤 庸夫