サッカーアラカルチョ
一覧に戻るヨーロッパフットボール回廊「プロ未経験選手スパーズの監督に!」
25・06・14
「名監督必ずしも名選手にあらず」という言葉がある。ワールドカップ優勝の名選手は数多くいるが必ずしも彼らが名監督になったわけではない。
イングランドのレジェンドと言われる名監督は1966年W杯イングランド大会優勝監督のアルフレッド・ラムジーであるが、選手時代はスパーズのFBであり、戦後イングランド代表選手にも選ばれているが、トップの選手として活躍したわけではない。彼の持ち分は『General(将軍)』という名が付くほどリーダシップに長けた選手であった。引退後監督となり持ち前のリーダシップを発揮し優勝の栄誉を勝ち得たと言われている。
近年ではリバプールの監督は歴代「ブーツルーム(スパイクシューズの管理室)」から生まれている。ボブ・プレズリー、ジョー・ホーガン、そしてスコットランドの英雄ダルギッシュも然りである。
近年ではアーセナルの監督であった、プロフェッサーの異名を持つベンゲルがいる。フランス3部ASムツィグの選手ながらストラスブルグ大学で経済学位を取得。引退後にASナンシーの監督を皮切りに、モナコの監督に就任、1988年リーグ優勝、91年フレンチカップ優勝、フランス代表のティエリ・アンリーを育てた。その後Jリーグ名古屋グランパスの監督を経て、1996年イングランドアーセナルの監督に就任、リーグ優勝3回、FAカップ7回優勝の栄誉をアーセナルにもたらしたのである。
彼の監督としての特徴は細かいシステムの構築とそのドリルであった。得点パターンを解析しそれをペナルティエリア内でGK、2人のDFそして攻撃側には2トップを置き徹底的に得点パターンのドリルを行っていた。微に入り細に入り、いかなる条件下でも得点を挙げるかを練習の中に取り入れていた。
そしてマンチェスターユナイテッド(以下MU)の監督アレックス・ファーガソンは選手として成功したわけではない。スコットランドのアバデイーンでの監督として成功、MUへ請われてカントナ+92年ユース組(ベッカム、スコールス、ギッグス、バット、ネビル兄弟たち)を中心に、スピードある展開から得点を上げるパターンを構築、時としてはパフォーマンスが悪い選手には鉄拳を振るい、練習所のクリフでは徹底的なパターン練習を繰り返しMUの黄金時代を復活させたのである。
例えばカントナとベッカムには練習後100本ものクロスからピンポイントでシュートを決める練習を課し、後年ベッカムのクロスの精度は世界一ともいわせるほどにしたのもファーガソン監督あっての事であった。
その後MUの監督になったモリーニョはイングランド代表監督でもあったロブソンがポルト(ポルトガル)の監督時代、通訳としてコーチ、マネージメントを学んだのである。選手としての経歴はほとんどない。
ビッグクラブの監督の資質としては必ずしも選手として活躍した経歴が大前提ではないことが分かる。
筆者が1980年代歩いて行けるプロ・チームのひとつにブレントフォードFC(愛称はBee’s=蜂)があった。当時プロリーグの4部、スタジアムは正面こそ椅子席であったがゴール裏、そして裏正面は立見席であった。スタジアム名は「Griffin Park(グリフィンパーク)」、四隅にパブがあり、一角はGriffin Pubとして有名であった。観客数は1千人から2千人程度。ただしコアのサポーターはわずか10列もないゴール裏、それもゴールラインから3m程度に低いフェンスが区切られている立見席で熱烈に応援、相手チームにとっては一番嫌なスタジアムであった。
そのBee’sが3部(1978−92)に上がり、2部(1993−98)に上がり、2018年デンマーク人トーマス・フランクが監督として任命され、2021年待望のプレミアリーグに昇格した。その間2020年まではホームグランド「Griffin Park」で1904年以来公式戦をこなしていたが、2021年近くのKew Bridge(キュー・ブリッジ)に17,250人収容の新スタジアムを建設しGriffin Parkから移転。ここ数年プレミアの異端児としてリーグ中堅チームとして現在に至っている。
経営的には弱小かつ観客数もボーンマスに次ぐ少ないなか、Bee’sが2022−23年度にはリーグ9位、そして前シーズンは13位とプレミアリーグの中堅チームになったのである。その立役者は監督であったトーマス・フランクの手腕があってこその結果であることは間違いない。彼は前述の名監督必ずしも名選手ならずの典型的な例であろう。デンマークのユースレベルのコーチとしてならしデンマークの名門グロンビーFCのコーチとしてもその手腕は定評があった。
ブレントフォードでは戦略的に相手チームを分析、試合ごとに相手チームの弱点をつく戦術を採りThomas Plan A,B,C(4−4−2,4−3−3,3−4−3等々)と相手次第、一戦ごとにシステムを変え選手を鼓舞し対応、勝利を挙げ、結果を残した。また選手に対してもその特徴を伸ばし、生き生きとプレーできる環境を作り、チーム一体となった結果の勝利であった。
そのトーマスの手腕を評価したのが今シーズンプレミア17位と低迷したトッテナム・ホットスパー(スパーズ)である。スパーズはヨーロッパリーグ決勝戦でMUと決勝戦を戦い1−0と勝利。来シーズンのヨーロッパチャンピオンズリーグ出場権を確保した。
しかしスパーズの会長レビーは今シーズンの17位という戦績に満足せず監督ポステコグロを即日解雇した。そして後任にBee’sの監督トーマス・フランクを指名、契約した事を表明した。電撃的な決断であった。フランク監督にとっては待望のトップクラブ監督であり来シーズンの活躍が期待されている。
一方、トーマスを失ったBee’sは新たな監督探しを強いられ、監督次第でまた2部落ちをも強いられる可能性あり、Bee’sファンにとっては泣くに泣かれぬ監督移籍である。
監督にはFlexibility(柔軟性)が求められる。MUの監督のようにシステムは3−4−3しかないと固定化し、機能しないチームを作り、試合に勝てず、ひいては選手のやる気を失わせ結果が出ないケースもある。
柔軟性と相手次第でシステムチェンジを可能とし選手のやる気を引き出す監督も求められているのだ。
◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
89−94:日本サッカー協会欧州代表
94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
08:JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
イングランドのレジェンドと言われる名監督は1966年W杯イングランド大会優勝監督のアルフレッド・ラムジーであるが、選手時代はスパーズのFBであり、戦後イングランド代表選手にも選ばれているが、トップの選手として活躍したわけではない。彼の持ち分は『General(将軍)』という名が付くほどリーダシップに長けた選手であった。引退後監督となり持ち前のリーダシップを発揮し優勝の栄誉を勝ち得たと言われている。
近年ではリバプールの監督は歴代「ブーツルーム(スパイクシューズの管理室)」から生まれている。ボブ・プレズリー、ジョー・ホーガン、そしてスコットランドの英雄ダルギッシュも然りである。
近年ではアーセナルの監督であった、プロフェッサーの異名を持つベンゲルがいる。フランス3部ASムツィグの選手ながらストラスブルグ大学で経済学位を取得。引退後にASナンシーの監督を皮切りに、モナコの監督に就任、1988年リーグ優勝、91年フレンチカップ優勝、フランス代表のティエリ・アンリーを育てた。その後Jリーグ名古屋グランパスの監督を経て、1996年イングランドアーセナルの監督に就任、リーグ優勝3回、FAカップ7回優勝の栄誉をアーセナルにもたらしたのである。
彼の監督としての特徴は細かいシステムの構築とそのドリルであった。得点パターンを解析しそれをペナルティエリア内でGK、2人のDFそして攻撃側には2トップを置き徹底的に得点パターンのドリルを行っていた。微に入り細に入り、いかなる条件下でも得点を挙げるかを練習の中に取り入れていた。
そしてマンチェスターユナイテッド(以下MU)の監督アレックス・ファーガソンは選手として成功したわけではない。スコットランドのアバデイーンでの監督として成功、MUへ請われてカントナ+92年ユース組(ベッカム、スコールス、ギッグス、バット、ネビル兄弟たち)を中心に、スピードある展開から得点を上げるパターンを構築、時としてはパフォーマンスが悪い選手には鉄拳を振るい、練習所のクリフでは徹底的なパターン練習を繰り返しMUの黄金時代を復活させたのである。
例えばカントナとベッカムには練習後100本ものクロスからピンポイントでシュートを決める練習を課し、後年ベッカムのクロスの精度は世界一ともいわせるほどにしたのもファーガソン監督あっての事であった。
その後MUの監督になったモリーニョはイングランド代表監督でもあったロブソンがポルト(ポルトガル)の監督時代、通訳としてコーチ、マネージメントを学んだのである。選手としての経歴はほとんどない。
ビッグクラブの監督の資質としては必ずしも選手として活躍した経歴が大前提ではないことが分かる。
筆者が1980年代歩いて行けるプロ・チームのひとつにブレントフォードFC(愛称はBee’s=蜂)があった。当時プロリーグの4部、スタジアムは正面こそ椅子席であったがゴール裏、そして裏正面は立見席であった。スタジアム名は「Griffin Park(グリフィンパーク)」、四隅にパブがあり、一角はGriffin Pubとして有名であった。観客数は1千人から2千人程度。ただしコアのサポーターはわずか10列もないゴール裏、それもゴールラインから3m程度に低いフェンスが区切られている立見席で熱烈に応援、相手チームにとっては一番嫌なスタジアムであった。
そのBee’sが3部(1978−92)に上がり、2部(1993−98)に上がり、2018年デンマーク人トーマス・フランクが監督として任命され、2021年待望のプレミアリーグに昇格した。その間2020年まではホームグランド「Griffin Park」で1904年以来公式戦をこなしていたが、2021年近くのKew Bridge(キュー・ブリッジ)に17,250人収容の新スタジアムを建設しGriffin Parkから移転。ここ数年プレミアの異端児としてリーグ中堅チームとして現在に至っている。
経営的には弱小かつ観客数もボーンマスに次ぐ少ないなか、Bee’sが2022−23年度にはリーグ9位、そして前シーズンは13位とプレミアリーグの中堅チームになったのである。その立役者は監督であったトーマス・フランクの手腕があってこその結果であることは間違いない。彼は前述の名監督必ずしも名選手ならずの典型的な例であろう。デンマークのユースレベルのコーチとしてならしデンマークの名門グロンビーFCのコーチとしてもその手腕は定評があった。
ブレントフォードでは戦略的に相手チームを分析、試合ごとに相手チームの弱点をつく戦術を採りThomas Plan A,B,C(4−4−2,4−3−3,3−4−3等々)と相手次第、一戦ごとにシステムを変え選手を鼓舞し対応、勝利を挙げ、結果を残した。また選手に対してもその特徴を伸ばし、生き生きとプレーできる環境を作り、チーム一体となった結果の勝利であった。
そのトーマスの手腕を評価したのが今シーズンプレミア17位と低迷したトッテナム・ホットスパー(スパーズ)である。スパーズはヨーロッパリーグ決勝戦でMUと決勝戦を戦い1−0と勝利。来シーズンのヨーロッパチャンピオンズリーグ出場権を確保した。
しかしスパーズの会長レビーは今シーズンの17位という戦績に満足せず監督ポステコグロを即日解雇した。そして後任にBee’sの監督トーマス・フランクを指名、契約した事を表明した。電撃的な決断であった。フランク監督にとっては待望のトップクラブ監督であり来シーズンの活躍が期待されている。
一方、トーマスを失ったBee’sは新たな監督探しを強いられ、監督次第でまた2部落ちをも強いられる可能性あり、Bee’sファンにとっては泣くに泣かれぬ監督移籍である。
監督にはFlexibility(柔軟性)が求められる。MUの監督のようにシステムは3−4−3しかないと固定化し、機能しないチームを作り、試合に勝てず、ひいては選手のやる気を失わせ結果が出ないケースもある。
柔軟性と相手次第でシステムチェンジを可能とし選手のやる気を引き出す監督も求められているのだ。
◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
89−94:日本サッカー協会欧州代表
94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
08:JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
伊藤 庸夫