コンサドーレ札幌の王道と遍歴2019年11月号

公式記録
「こうしききろく」は多方面で使う
スポーツの世界に限っても多種多様
さらにサッカーの世界だけでも違う
ここではJリーグ関連のモノに絞る
ルヴァンカップとJリーグとも違う
北海道コンサドーレ札幌が直面する

プリント用紙はA4版で形は同じだ
強いて違いを探すとPK戦の経過枠
マッチコミッショナー主審と運営者
この3人の署名が公式の認めになる
(公社)日本プロサッカーリーグ制
寸分の違いなく公にして責任を有す
    
ルヴァンカップ決勝記録を手にする
VAR・氏名AVAR・同と記録員
この3人の名前あり映像審判の登場
本誌9月号で取り上げた映像審判だ
ルヴァン決勝(10月26日)では
荒木主審がレッドカード(S5)だ
   
公式記録のJ30節(11月2日)
札幌―名古屋戦で山岡主審がレッド
名古屋選手が得点機会阻止(S5)
名古屋監督は「来年はJもVAR」
判定を公式記録に残す方法も考えて
テレビ座談会では「即答は無理」と
コンサドーレ札幌の王道と遍歴

10月26日、ルヴァンカップ決勝の川崎戦延長前半3分、荒木主審がレッドカードを提示する。埼玉スタジアム2002、撮影・石井一弘

コンサドーレの王道を拓く
「翔んで埼玉」からGOGO北海道
 埼玉をテーマにした映画「翔んで埼玉」が流行語大賞にノミネートされた。その前は「ダ埼玉」。映画では「草」だったが、県地図の形から「芋」も。「桜が咲いた埼玉県」。あまりインパクトはないが東京の衛星都市が徐々に「人の住む町」になってきた。
 サッカーの浦和レッズが2019年Jリーグで13位に落ち込んでいる。JAPAN代表からも姿を消した。ひと聞きは悪いが、「地方クラブの雄」と北海道コンサドーレ札幌が、解説者から言われるような昨今である。
 「ああ上野駅」の歌に送られて、埼玉から札幌に来た。もちろんサッカーを背負ってコンクリートジャングルから脱出してきた。蹴球の草分け埼玉県立浦和高校から東京教育大(現・筑波大)で、1960年に当時、西ドイツ出身のデトマール・クラマー氏に会った。64年の東京オリンピックの日本サッカーの指導者としての来日であった。
 あれから60年、2020年東京オリンピック・パラリンピックがカウントダウンしている。花を添えるように、メダル候補が次々にテレビ画面を飾っている。
Jリーグで「3度目の正直」
 コンサドーレ札幌が1996年に北海道に誕生して、98年にJリーグ加盟。23年の年月が経った。3年連続J1は初めての経験で、「怖いチーム」に位置付けされ、JAPANのユニホームを着たFW鈴木武蔵、MF菅大輝(U−22)、DF進藤亮佑が活躍するシーンが目に浮かぶ。
 96年当時は、東芝堀川町サッカー部(1935年創部)で、高橋武夫監督が采配。今でもススキノでサッカーバー「DonBe」を経営している川合孝治氏が最多得点者になっている。97年フェルナンデス氏から98年石井肇氏。99年から2001年が98年W杯フランス大会日本代表監督だった岡田武史氏で00年J2優勝、01年J1残留。02年は柱谷哲二氏に始まり、イバンチェビッチ氏−張外龍氏でJ2降格。03年はジョアン・カルロス氏−再び張外龍氏が引き継いでJ2のまま。
 その後、柳下正明氏(04−06年=J2、06年天皇杯ベスト4)、三浦俊也氏(07年J2優勝、08年J1からJ2へ降格)。石崎信弘氏(09−12年、11年=J2で3位となりJ1へ、12年=J1からJ2降格)。財前恵一氏(13−14年8月=J2)、バルバリッチ氏(14−15年7月=J2)、四方田修平氏(15年7月−17年、16年=J2優勝、17年=J1残留)。
 2018年1月、ミハイロ・ペトロビッチ監督就任。前年J1残留の四方田監督をヘッドコーチとして召集、札幌は17年以来3年連続J1をキープしている。
 ペトロビッチ監督は、2006年から11年まで6年間サンフレッチェ広島で指揮するものの優勝経験は無く07年にはJ2降格、翌年J2優勝で11年はJ1・7位で、森保一コーチに監督の席を譲った。広島は12、13年J1チャンピオン。さらに15年もJ1優勝を飾っている。
 その後、ペトロビッチ監督は2012年に再び日本での監督に挑戦する。浦和レッズは、12年から17年まで。16年にはルヴァンカップの栄誉を勝ち取ったが、J1リーグ優勝は無い。17年7月で浦和を寂しく去った監督がコンサドーレに来るとは思わなかった。彼の浦和での最終戦が第19節の札幌ドームだったことをふっと「何だったのだろうか」と思う。
 札幌は2年目。昨年コンサドーレのJ1リーグ最高位の4位。今年はルヴァンカップ決勝に進出したが、3−3でPK戦。選手は未経験のファイナルに「監督以上の興奮度」。川崎フロンターレは5度目の挑戦で悲願の優勝。日本では「気合い」の違いというが、愛称ミシャの気持ちは誰も「気にしなかった」。何か「あめ玉」は無かったのだろうか。進藤が言った「(PK)やりたいものは手を挙げろ。僕は手を挙げた」と。これからが選手や監督コーチの「根性論になる」。
「ポイチの恩返し」か
 森保一監督のJAPANが動き出した。11月6日、公益財団法人日本サッカー協会は2022年W杯カタール大会アジア2次予選の代表メンバーを発表した。日本(FIFAランキング28位)はW杯で14日にアウエーでキルギス(同94位)と対戦する。今回の森保監督の人選はW杯予選組と親善試合チームに分けて選出している。コンサドからはFW鈴木武蔵がアジア予選組と親善試合組の両方に選ばれた。親善試合は19日、パナソニックスタジアム吹田にベネズエラ(FIFAランク26位)と対戦する。このチームに初めて札幌のDF進藤亮佑(23)が選出された。
 進藤は小中学生の頃、今年40周年を迎えた「SSS札幌サッカースクール」で練習した。U−18からコンサドーレ札幌の下部組織に入り四方田修平・現ヘッドコーチの薫陶を受けた。U−18の全国大会で優勝した時のメンバーでもあり、頭角を現し出したのは20歳を過ぎてから。ライトディフェンス定着は、昨年から、進歩が速い―と他チームやペトロビッチ監督の評価も上がってきた。「監督・コーチの言うことを実践している」。これを見分けるのもオールJAPANを抱える監督の務め。ルヴァンカップ決勝のPK戦を森保一監督も見ただろう。DF進藤は、その後J1リーグ第30節名古屋グランパス戦に出た。3−0で勝ったが、いつもと変わりない。ルヴァンカップPK失敗は、きっと、きっとこれからの人生に役立つ。森保監督の愛称「ポイチ」が、彼に託した「夢」は、ミシャの望むところと感じた。
ペンとカメラと友の出会い
 サッカーの試合は、書き手と写真を撮る2人が必要。「ペン・カメ」と言い、カメラマンと書き手とは、ゼッケン(写真)、腕章かプレート(記者)に分かれている。北海道のサッカーが動き始めたころ、サッカー好きのカメラマンや記者が北海道サッカー協会のメンバーと「親善試合」をしていた。互いに顔なじみになると「深く」論じあえるようになる。「北海道の蹴球」をどうするか。
 1972年札幌でオリンピックの冬季大会が開かれた。夏は西ドイツのミュンヘン市が会場だった。夏冬同時開催は、これが最後だった。そのためかどうかわからないが、「ブラックセプテンバー」の惨事があった。その時の現場にいたのが、2001年から「北のサッカーアンビシャス」の文と写真を担当しているペアである。
 関わったのが札幌大学で監督をした柴田勗教授。日本で初めてブラジル人選手を大学に入れた先生で、当時の学生が、A・P・マリーニョ氏(65)で、この5月に「子どもにサッカーの“本質”が伝わる本(東邦出版)」を出版した。筑波大出身の笠野英弘氏(38)と共著になっているが、子どもだけではない、世界の一流選手は知っている者は、「個人」、「個性」も大切にしている。当然、ペレ、メッシ、マラドーナ、ロナウジーニョ、ロナウドとなるが、ジャパニーズは小野伸二、中村俊輔、中田英寿、三浦知良の4人が登場する。全部で54人。こんなに名選手の「ひとこと」に出会える本は見たことがない。
北海道とともに、世界へ
 今年もいろいろなことがありました。全てが「一段」上がったと思います。代表選手が3人も出たことはありません。サッカーどころ埼玉では、「あいつも落ちたか」と言います。遠くから「浦和ガンバレ」。北海道はチームスローガンのように「世界=日本代表」を目指して。
 W杯ラグビーが終わった。ラインパスがほとんどない。肉弾戦だ。南アフリカの小柄な選手に拍手を贈りたい。何でも「やれば出来る」。最近の浦和高校からの電子メールで「ラグビー部が高校選手権の埼玉予選で準決勝に勝ち進んだ」の報があった。
                                                    (池田 淳)