コンサドーレ札幌の王道と遍歴2018年2月号

マインド
「mind」の直訳は心や精神の事
北海道コンサドーレ札幌も必須科目
監督やスタッフが技術以上に求める
チームが行き詰まると指揮官が叫ぶ
「もはや気持ちの問題」ハートだよ
日本人には「大和魂」があると言う

ドイツのデットマール・クラマー氏
1960年来日「東京五輪」コーチ
東京はダメだったがメキシコで開花
銅メダルを獲得釜本邦茂氏が得点王
1998年W杯フランス大会初出場
世界に羽ばたく土台を創ってくれた

クラマー氏は2015年亡くなった
学生時代幡ヶ谷のグラウンドに来た
岡野俊一郎氏が通訳で写真を撮った
2002年W杯日韓大会の時札幌へ
40年前教えを受けた人が集まった
応時の写真にサインする姿が最期で

コンサドにペトロビッチ監督が就任
元日本代表のオシム氏が生涯の師匠
5歳年上ハリルホジッチ監督も同郷
オシム繋がりの二人が求「ハート」
ハリル監督「勇敢に激しく」を決意
ミシャさんは「ファミリー」が好き
コンサドーレ札幌の王道と遍歴

北海道コンサドーレ札幌キックオフ2018で選手らの質問に丁寧に答えるペトロビッチ新監督、左はコーチ兼任の杉浦通訳。1月13日、札幌市の「北海きたえーる」、撮影・石井一弘

コンサドーレの王道を拓く
日本サッカーの3度目の正直「ドイツに習え」
 世界のサッカーを変えようとする指導者が、いまのJAPANの重要な人物だ。ミハイロ・ペトロビッチ監督、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督、イビチャ・オシム氏。日本がFIFAランキングの50位台を思うと、日本のキャプテン、Jリーグのチェアマン、JFAのリードオフマン、さらにサッカーに夢中なプレーヤー、指導者、サポーター、スポンサーの方々――。いま日本のフットボールは「世界に向かって」発展、発信するかを考える時が来たようだ。
 2018年を、この3人に託してみたい。共通点は、ユーゴスラビア連邦(ボスニア・ヘルツェゴビナ)の、あの惨劇の中で「サッカーしかない」生活、家族と離れ離れになる悲惨さを、それぞれを味わった人たちだから。ドイツのゲルマン民族の「フッスバル」を念頭に、それぞれ国籍をオーストリア、フランスにして、きっと日本にたどり着いたのだろう。ここで、これまでの苦闘を、一気に晴らして頂きたい。日本人の「マインド」を引き出すために。
76歳と65歳と60歳
 元日本代表監督オシム氏(1941年5月6日生まれ・ボスニア出身=国籍オーストリア)。 
 現日本代表・ハリル監督(1952年5月15日生まれ・ボスニア出身=国籍フランス)。
 北海道コンサドーレ札幌監督・ミシャさん(1957年10月18日生まれ・セルビア出身=国籍オーストリア)。
 オシム氏を頂点に、ハリル監督はオシム氏の「親友」だし、ミシャさんは「コーチに行ったら、ボスがいた」という仲で、仕草まで似ている「師弟」だ。
 一時は「内紛」(1991−1995年)で、オシム氏とミシャさんは、オーストリアに居を構え、ハリル監督はフランスのパリ・サンジェルマンで活躍している。それでもW杯など国際試合はユーゴスラビア代表「お国のためならぬ、家族と自分のため」に戦ってきた人たちだ。
「日本サッカーの父」
 1960年日本サッカー協会(JFA)は、64年の「東京五輪」のコーチとして西ドイツのデットマール・クラマー氏を招請した。外国人のトップコーチは初めて。当時の会長は野津謙氏で、交渉に当たったのは成田十次郎氏(東京教育大出、ケルン大学留学)らが、日本サッカーの一大革命をやってくれた。
 ビックリしたのは、当時の日本の選手が「精神力と根性で戦え」と言われた時代に、日本には「大和魂」がある。心の持ちようと意識を、クラマー氏は「武士道」まがいの「師弟感」を回顧させてくれた。さらに「コーチ」の大切さを念頭に置き、教師を目指す人、協会の関係者らに率先して、実技とコーチングを教えて回った。そして個々のプレーヤーが「マインド」を持ってプレーすることを説いた。
 東京教育大の幡ヶ谷キャンパスにあったサッカー・グラウンドで初めて会った。クラマーさんは、ボールに腰かけて話し出した。そんなことは日本人には考えられない時代だった。そこで3B(スリービー)のことを話した。「バランス、ブレイン、ボディー」。なるほどボディーバランスだ。東京大学の名プレーヤー岡野俊一郎さん(2017年2月2日85歳で死去)が通訳で、子どものころから写真機を持って歩いていた小生が写真を撮った。教育大の球技研究室(多和健三教授)の元で、卒論に取り掛かっていた。研究室でDPEをやった。白黒の写真は、クラマーさんのサージェント・ジャンプヘッドをしっかりと捉えていた。さらにドイツの教本を託してくれたが、今は手元にない。のちに日刊スポーツの荻島弘一記者らによって翻訳、出版された「ドイツサッカー」が、それだったのか。著者はゲルハルト・バウアー氏、序文はフランツ・ベッケンバウアー選手が書いている。
 「東京五輪」はベスト8に終わったが、68年のメキシコ大会では、3位の銅メダル。FW釜本邦茂氏が得点王に、チームはフェアプレー賞も受けた。
 2002年のW杯日本・韓国大会の時、再び来日した。札幌で、50年前の教え子に会い、懐かしい幡ヶ谷で撮った写真にサインをしてくれた。わき目も振らずに20枚。それがお別れだった。
 「トップチームのリーグを創れ。芝のピッチを造れ。高校生世代のレベルアップ。国際試合の場を持て。コーチ制度の確立」。5つの課題を残して去った。クラマーさんは2015年9月17日ドイツで90歳の生涯を終えた。いま、JAPANは5つの課題をすべてクリアしている。口癖のように言う「私の最大の仕事と喜びは、メキシコ大会の日本の銅メダルだ」と。
次のステップはW杯の挑戦
 日本代表の次の目標は、ワールドカップ(W杯)への道。最初に洗礼を受けたのがオランダのハンス・オフト監督。1992年5月に就任、1994年のW杯アメリカ大会を目指した。アジア予選の最終試合でイラクに2−2と引き分け、勝ち点6を得たが得失点差で韓国に代表を奪われた。「ドーハの悲劇」と呼ばれオフト監督は93年10月解任された。
 次は1998年のフランス大会。オフト監督の後、欧州路線を南米路線に切り替えた日本代表はブラジルからパウロ・ロベルト・ファルカン監督を要請したが、アジア競技大会で4位以内の目標が達成できず94年5月から同10月の短期間で解任された。「やはり日本人同士で」と加茂周監督が95年1月から就任したが、アジア予選の97年10月4日カザフスタンと引き分け「前代未聞の(現地)監督解任」になった。この後、コーチだった岡田武史氏が引き継ぎ、日本初のワールドカップ出場の快挙を打ち立てた。結果はグループリーグで3戦全敗。日本0−1アルゼンチン、日本0−1クロアチア、日本1−2ジャマイカ(この1点は中山雅史)。
 2002年日・韓大会。フランスからフィリップ・トルシエ監督が98年10月から就任、地元開催ながら「初のベスト16」の快挙。日本2−2ベルギー(鈴木隆行、稲本潤一)、日本1−0ロシア(稲本潤一)、日本2−0チュニジア(中田英寿、森島寛晃)、トーナメント1回戦日本0−1トルコ。
 2006年ドイツ大会は、鹿島アントラーズで総監督をやったジーコ監督(ブラジル)。グループリーグで敗れたが、中田英寿、中村俊輔、福西崇史、宮本恒靖、中澤佑二、川口能活ら「黄金時代」と言われた選手をそろえていた(日本1−3オーストラリア=中村俊輔、日本0−0クロアチア、日本1−4ブラジル=玉田圭司)。
 ジーコ氏の後は、注目のイビチャ・オシム監督。2006年8月に就任、ジェフユナイテッド千葉から代表監督に。ユーゴスラビアの監督の後、千葉に来て、同チームをカップ戦で優勝に導いた。「考えて走るサッカー」を提唱、2010年の南アフリカ大会を目指したが、07年11月に自宅で脳梗塞を発症した。JFAの小野剛会長が、再び岡田武史監督を要請した。賛否両論がある中、岡田監督は、オシム氏の攻撃的スタイルを緩和、「堅守速攻」を中心に選手を集め、中盤に長谷部誠、遠藤保仁、阿部勇樹ら、守りに闘莉王、中澤佑二、駒野友一らを置いた布陣で、2勝2敗(日本1−0カメルーン=本田圭佑、日本0−1オランダ、日本3−1デンマーク=本田圭佑、遠藤保仁、岡崎慎司、日本0−0=PK3−5=パラグアイ)で、トルシエに次いでベスト16位を確保した。
 2014年ブラジル大会は、イタリアのアルベルト・ザッケローニ監督。日本1−2コートジボアール(本田圭佑)、日本0−0ギリシャ、日本1−4コロンビア(岡崎慎司)の勝ち点1に留まりグループリーグで敗退した。
W杯6連続出場の力量
 18年W杯ロシア大会は6月に開幕。石橋を叩いて渡る東欧圏のサッカーは日本人に向いている。ハリル監督の日本代表(サムライ・ブルー)には三度目の正直、ベスト16以上の成績を期待する。ミシャ監督もサンフレッチェ広島、浦和レッズとコンサドーレ札幌の3チーム目で「3度目の決算」が注目される。また、「ドイツの連勝」はW杯通算の5勝目。たくさんの教材を持った教えが詰まった「教本」として「コーチングの源」である。今や「ドイツに習え」だろう。
 日本のサッカー発展のために、機会を見てまた続きを書きたい。
                                                      (池田 淳)