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ヨーロッパサッカー回廊『プレミアの巨匠去る』

18・05・11
 イングランドプレミアリーグの巨匠と言われる監督は極めて少ない。例え優勝しても、次シーズン中堅ランクに落ちれば、サポーターの監督交代の声高く、クラブオーナーが観客動員数減と営業利益減を重視し、いとも簡単に首を言い渡す世界が現在のイングランドフットボール界の実情である。

 その中で、1996年以来22年間もプレミアのトップクラブ、アーセナルの監督として君臨していたのが、フットボール界では数少ない大学出で、ストラスブルグ出身のフランス人、アーセン・ベンゲルである。

 その巨匠ともいうべきベンゲル監督が、突然4月20日に「今シーズンを最後にアーセナル監督を辞する」と発表したのである。

 1996年9月、突然、Jリーググランパスエイトの監督をシーズン途中で辞任し、アーセナルの監督に就任。当時『Arsene Who?』と言われた中でこの22年間、リーグ優勝3回、FAカップ優勝7回の記録を達成している。年齢も68歳となってはいるが、まだまだ彼のフットボールに関する情熱とマネージメント能力は捨てがたいものがある。その中での発表は、チームの選手、コーチ、そして2004年以来リーグ優勝から遠ざかっているため『Wenger Out』のスローガンを掲げていた一部のサポーターも耳を疑った決定であった。

 過去、ベンゲルをサポートしていたクラブ筆頭株主クロンケもサポーターと他の役員からの更迭要求に対峙できず、あと1年の契約を残し、「辞任するか、さもなければ更迭せざるを得ない」と引導を渡した結果、ベンゲルは5試合を残し辞任を発表したのである。プレミアの巨匠もついにプレミアを去ることとなった。果たして彼の後任はいるのだろうか。

 筆者も彼とは1992年、彼がモナコの監督であった頃初めて面会した。印象は大きなメガネをかけたまるで大学の教授風であった。フットボールの監督とはどう見ても見えなかった。日本の静岡で毎年行われているSBSカップにモナコユースを招聘するため、クラブを訪問し、ベンゲル監督と交渉した時が初対面であった。

 当時、広島の監督として赴任したスチュワート・バクスター(現南ア代表監督)がベンゲルと知己であり、マツダ(広島)の選手のトレーニングを受け入れてくれていた経緯もあって、即ユースのSBSカップ出場を許可してくれた。ユース育成を重んじる監督との印象であった。

 その当時、多くのイングランド・プレミアクラブはベンゲルを監督に招くべくアプローチをしていたが、新生Jリーグ・グランパスエイト(名古屋)へ赴任したのは、新しい環境でセンセーショナルな結果を求めた彼自身の挑戦であったと思われる。しかし彼の頭の中は世界一たることという点でプレミアクラブとの接点は残していたため、Jリーグのシーズン半ば1996年9月でアーセナルに移ったのであろう。

 彼がイングランドで行った改革は、従来のイングランドスタイルのフットボールを根本的に変えたことであろう。

 その最も顕著な例は選手のライフスタイルの改革であった。当時のイングランド選手の生活態度はまさしく、激しい練習と試合の繰り返し。その後は常時PUBで飲んだくれる生活でもあった。そしてアスリートに必要なダイエッテイング(栄養)もジャガイモと肉中心であった。その点をまず改善したのがベンゲルである。

 アーセナルの選手食堂にも筆者は何度となく訪れたが、そこのメニューは野菜が豊富で、肉は主にチキン、そしてジャガイモの代わりにパスタとした。さらに試合前48時間はアルコールを一切禁止し、それを徹底したのである。試合後の一杯はグラス赤ワイン1杯のみに制限した。このためアルコール中毒とも言われていたキャプテン、トニー・アダムスも肉体改造でよみがえり、35歳までプレーを続けることが出来る程になった。当時はアーセン革命といわれるOver30のバックス陣(アダムス、ケーオン、ウインターバーン、S・ボールド、デイクソン)をよみがえらせ、その後のタイトル獲得に貢献したのである。

 次に戦術面でも画期的な手腕を発揮した。彼は元々は大学を出て当時1部のストラスブルグのMFであった。足があるわけでもない平凡な選手であった。しかし彼がチームマネジメントで最重要視したのは速い選手を重んじ、スピードに乗ったシステム展開をするフットボールを目指していたことである。

 モナコではティエリー・アンリーを育て、アーセナルに移籍させた。元々ウインガーであったのを快速ゴールゲッターに仕立て、アーセナルの支柱にしたのもベンゲルの眼識であろう。更に、イングランド代表ストライカーとなったイアン・ライトも快速ストライカーであった。以降、選手スカウティングの的はFW、フルバックは快速であることであった。

 そしてイングランドのスタイルであった、背の高い競り合いに強いターゲットとなるセンターフォワードへボールを集めるスタイルから、細かいワンツーからピッチの中心部の快速ストライカーを走らせ、相手バックスの裏を突く攻撃を中心に得点をあげる戦術へ転換した第一人者でもあった。

 筆者は当時浦和の森監督、その後の監督である原氏を率いてアーセナルの練習を見学させてもらったことがある。その時の練習風景はいまだに新鮮な感覚として目に焼き付いている。ペナルティエリア内に守備側はGKとセンターバック1人、攻撃側はそのエリア内の狭い所に3人、ベルカンプ、アンリー、ピレスである。ワンタッチ、ツータッチ以内の細かい速くて正確なパスを通しシュート! この練習を延々と45分もの間続けていくのだ。

 練習後に質問をした。「なぜあのようなゴールマウスへ3人ものストライカーを入れて練習するのか?」と。べンゲルは「あの狭い空間の中でシュートが打てるスペースを作り、シュートを決めれば得点確率は高い。あの3人の技術は世界的であるが、ペナルティーの外からでは得点確率は低くなる。点を取るスポーツであるフットボールの確率を増長させる実践練習だよ。練習で点が取れれば試合でも取れるからやっている」と明快に答えた。

 その後もウォルコット、オックス・チェンバレンのようなスプリンターフォワードを好んで獲得。代表クラスへ進歩させ、エキサイティングな攻撃的なアーセナル・アタッキングフットボールを作り上げた功績はイングランドフットボールの革命家とも称されている。

 そして旧来のハイバリースタジアムを壊し、モダンな6万人収容のスタジアムを新設。そこにはベンゲルのフットボールエンターテイメントを重視したコンセプトが詰まった、あたかも『ベンゲルデザイン』ともいうべきスタジアムを建設させた。ベンゲル無しにはこの22年間のアーセナルはないと言っても過言ではないだろう。

 彼はまだピッチに立ち、若い選手を育てたい―とフットボール現場からの引退を否定している。

 パリサンジェルマンの監督にとか、フランス代表監督とかの噂があるが果たして来シーズンどこへ―は興味ある話題である。日本へという話は無きにしもあらずだが、彼のアーセナル監督の報酬が年9百万ポンド(14億円)とも言われており、どうなるか?いずれにせよプレミアの一人の巨匠が去っていく。

 折りしもマンチェスターユナイテッドの巨匠、元監督アレックス・ファーガソンが脳内出血で倒れた。彼は現在76歳であるが、72歳まで指揮を執っていた。べンゲルはいまだ68歳、まだまだインテリジェンスと熱情あり次の去就を注目したい。プレミアの最終戦は5月13日である。


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08    :JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)