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ださいたまから桜咲く埼玉へ! 浦和物語

18・04・18
田嶋―西野―村井でW杯ロシア大会

 「西高の西野朗が日本代表監督だってね」。「南高で全国優勝した田嶋幸三会長が記者会見していたぞ」。「浦高のJリーグのチェアマン村井満も勢いがあるね」。

 いま、さいたま市浦和区の中山道から北浦和にかかる「サッカー処」では、サムライブルーの監督交代にスポットが当たっている。

 4月9日、日本サッカー協会(田嶋幸三会長)は、2018年W杯ロシア大会日本代表のヴァヒド・ハリルホジッチ監督(65=ユーゴスラビア)を解任、後任に同協会技術委員長の西野朗氏(63)の就任を発表した(本紙4月号=王道を参照)。


【西野朗監督略歴】
 埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。1955年4月7日生まれ63歳。浦和西高校から早稲田大学。サッカー選手、利き足は右、MF。1978年日立製作所。1974−78年日本代表、90年に現役引退。

 指導者歴 91年U−20日本代表監督。94年アトランタ五輪U−23代表監督の時、本大会でブラジルを1−0で破る「マイアミの奇跡」を起こした。

 1998年から柏レイソル、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、名古屋グランパスの監督を歴任、Jリーグ270勝の前代未聞の記録を残している。「太陽の下のほうがいいね」と言いながら、2016年協会の技術委員長に就任していた。


【田嶋幸三会長略歴】
 熊本県天草郡出身。1957年11月21日生まれ60歳。幼少のころから東京で育ち、中学時代(世田谷・用賀中)では関東大会から全国優勝を果たした。その後、浦和南高校に進み、1975年、76年の全国高校選手権で連覇している。3年次の76年はキャプテンとしてのタイトルだった。

 その後、教員を目指し筑波大学に進学、FWとして活躍、日韓戦の前座試合で当時の下村幸男監督の目に留まり、日本代表入りを果たした。卒業後は古川電工サッカー部(現・ジェフユナイテッド千葉)に入った。同期には岡田武史、加藤好男、吉田弘らがいた。

 3年で選手生活にピリオド。筑波大大学院に通いながら西ドイツ(当時)のケルン体育大で、コーチングを学びB級ライセンスを取得した。帰国後、筑波大コーチ、同大客員助教授として「S級指導者養成」にもかかわっていた。

 協会関連では、2016年臨時評議委員会で「会長予定者」になり、同年3月27日、第14代会長に就任した。


【村井満チェアマン略歴】
 埼玉県川越市出身。1959年8月2日生まれ58歳。埼玉県立浦和高校から早稲田大学。サッカー関連は、中学時代までバスケットボールをしていたが、「赤き血のイレブン」の影響でサッカーに関心を持つ。浦高進学と同時にサッカー部に入りGKを目指す。監督の倉持守三郎先生(一昨年死去)らに師事、全国高校選手権県予選などに出場した。1977年代は、埼玉は、浦和南高の全盛期で、県内予選で涙を飲んだ。県内のベスト8が最高の成績だった。

 学生時代は、早稲田精神昂揚会に所属。卒業後は1983年に日本リクルートセンターに入社する。1988年の「リクルート事件」後は、人事部門を担当2000年人事担当執行役員。リクルート執行役員時代の2008年、日本プロサッカーリーグ理事に選任、2014年1月31日、Jリーグチェアマン(第5代目理事長)に就任した。


―さくらが咲いた埼玉県―
 「ださい」は、「野暮ったい」「洗練されていない」の意。その通り「だ埼玉」と言われた時代もあった。「桜が咲いた埼玉県」とも言われ、サッカーだけは、負けたくない「浦和、大宮」周辺は、国内だけではなく「世界へ羽ばたく」プレーヤーを求めて、団結している。スローガンは「浦和を制する者は日本を制する」。

 さらに、今回の「サムライブルー」はJFA「ジャパン・フットボール・アソシエーション」は世界へ向かってのアピールだと思う。FIFAランキングが60位に下がったのなんぞ、この3人プラスアルファで、イケイケだ。


【西野監督のコーチ陣】
 注目は、2020年東京五輪・パラリンピックのU−23監督の森保一氏(49)。コーチ筆頭は手倉森誠氏(50)、GKコーチ浜野征哉氏(45)、同コーチ下田崇氏(42)。さらにコンディショニングコーチを2人、早川直樹氏(55)と小粥智浩氏(44)。14日は手倉森誠コーチが、J1リーグ第8節ベガルタ仙台対川崎フロンターレ戦を偵察していた。
池田 淳