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クラマーさん90歳の死「ありがとう」

15・09・21
 ディットマール・クラマーさんが2015年9月17日ドイツで亡くなった―との訃報を日本時間18日早朝に知った。川淵三郎元キャプテン、釜本邦茂得点王、岡野俊一郎コーチらの顔が浮かんだ。ドイツのサッカー連盟によると「死因ははっきりしないが、自宅で療養中だった」。90歳だった。

 虫の知らせだったのだろうか、13日の日曜日のテレビにガマ(釜本氏の愛称)が出ていた。司会の関口宏と張本勲氏がスポーツ界の活躍を「あっぱれ、喝」と論じていた。釜本氏が初めての出演と聞き「もしや」とクラマーさんの近況が頭の中を走りまわった。

 「日本サッカーの父死去」と、18日付けの国内の新聞、スポーツ紙が報じた。クラマーさんは1960年、当時の西ドイツから日本代表のコーチとして招聘された。東京五輪の8強入り、メキシコ五輪の銅メダルと釜本の得点王、さらに日本のフェアプレー賞は、クラマー氏によって培われたものと報じた。

 ちょうど「60年安保」で、国内が大荒れだった。クラマーさんは、コーチということで任務に当たったが、ちょっとふがいない「日本を見てしまった」のではないか。学生は本分を忘れて、国会議事堂を取り囲み、スポーツどころではない。サッカーに至っては、基礎すら出来ていない。荒んだ心にクラマーさんは「日本人の魂はどこに行った」。「日本には大和魂があるじゃないか」と、見誤った将来を危惧していた。

 「基礎からやり直し」。彼は、選手よりもコーチや先生に「サッカーとは何か」を教えて回った。北海道にも来て協会関係者と「教師」に技術から、クラブの造り方、試合の方法、競技場の資質。クラブという団体の構成―などなど。将来はプロ選手も、まで熱く語り、教授した。99%教師を目指す東京教育大(現・筑波大)にも、岡野コーチ(ドイツ語通訳可)を伴って来校、ボールに座ったり、ボールに乗っかってバランスをとる、当時ご法度だったことを見せつけた。必死に写真を撮ったものだ。

 2002年、ワールドカップが日本と韓国で行われた。ドイツは札幌でサウジアラビアと対戦した。当然、クラマーさんは私的な行動は取れなかったが、本紙の柴田勗代表や当時の教え子(先生)たちに「会いたい」と、時間をひねりだしてくれた。教育大時代に撮った写真に「喜んで」、「ビールを飲む」のも忘れてサインしてくれた。

 いい先輩で、いいオヤジだった。お星さまになってしまったんだネ。

 (写真はいずれも東京教育大球技研究室・池田淳撮影)

 上写真/1960年の幡ヶ谷グラウンドでサイドキックの手本を見せるクラマーコーチ。


 上写真/東京教育大幡ヶ谷キャンパスでヘディングの手本を見せるクラマーさん。手前は岡野俊一郎コーチ

池田 淳