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ヨーロッパサッカー回廊『MU生き残り逝く』

13・12・24
 1958年2月6日、ミュンヘンリーム空港で離陸に失敗し、23名もの命が奪われた航空機事故があった。当時フットボール界の雄と言われたマンチェスター・ユナイテッドの選手が8名も亡くなったのである。

 ヨーロッパチャンピオンズカップの準々決勝でのアウエーの試合。ユーゴの首都ベオグラードでレッドスター・ベオグラードとの試合に3−3の引き分け、帰路ミュンヘンリーム空港で給油のため降り、雪の影響で離陸を3回繰り返した後、墜落したのである。

 8人の中にはストライカー、ダンカン・エドワードもおり、もし生存していれば世界のトップのストライカーとして君臨したともいわれる逸材であった。

 その墜落事故のMUの生存者は9人。その生存者の中で奇跡的に無傷で助かった選手はハリーとビルの2人。そしてサー・ボビー・チャールトンはけがで入院したが、その後復活、イングランドワールドカップで活躍するなど、現在でもMUの顔として役員となっている。当時の選手の中で生存していたのがこのハリーとビル、サー・ボビーの3人。

 その1人ビル・フォークスが11月25日マンチェスターで息を引き取った。享年81歳。

 マンチェスター・ユナイテッドの出場試合数688試合はギッグス、サー・ボビー、スコールズに次いで4番目の記録であり、マンチェスター・ユナイテッド生え抜き選手として、1968年のヨーロッパチャンピオンズカップ覇者となった当時の中心選手であった。ポジションはセンターバック。『Non Nonsence』という代名詞がつくぐらいのタフながらフェアーで堅実、そして存在感のある選手であった。

 サー・ボビーは2002年日韓ワールドカップで日本のアドバイザーとして日本との関わり合いが深いが、それより10数年も古い1988年、ビルはノルウェーのクラブの監督から当時日本リーグ2部のマツダの監督として日本に初めて赴任してきたのである。

 彼が来日した当時は、まだJリーグ発足前の時代。日本リーグ発足時の1960年代後半、4連覇を遂げた東洋工業時代の栄光を再び広島に、そしてプロリーグの発足も近い将来あるとみていた今西和男部長の慧眼からの外国人監督獲得であった。

 在任2年で日本リーグ1部へ上げ、Jリーグへの足掛かりを作って92年Jリーグ発足時のメンバーとなり、バトンを次のバクスター監督へ引き継ぎ、マンチェスターに戻ったのである。

 その後ビルはサンフレッチェ広島のヨーロッパスカウトとして選手補強に携わると共に、広島の若手選手をマンチェスター・ユナイテッドに送り込み、MUの選手と一緒にトレーニングをさせ、プロとは何か、プロ選手とはどういうものか、勝つためには何をしなければならないのかを学ばせたのである。

 その1期生がサンフレッチェ広島現監督の森保一であり、コーチの横内昭展も後に研修を受けている。また長崎の監督である高木琢也も現役時代、アジアに唯一ターゲットマンとして君臨出来たのもMUでの研修が大いに役立っていたのであった。その後、毎年多くの広島のコーチ、選手をMUに紹介しトレーニングを受けさせてくれた。

 それだけではない。Jリーグ発足以降の日本のフットボールブームに乗ったユース育成強化の流れから多くの日本のクラブ、高校、大学がマンチェスターへ短期Football Educationとして来英。ビルは試合のアレンジだけではなく、自らコーチングを行い、その人柄のよいアドバイスは来英したユース選手たちに大きな贈り物を与えてくれたのである。

 ある時は少年に「おい!ボールが汚い。ボールは毎日ピカピカに磨かなければいい選手にはなれない。今から磨け! 君のブーツ(日本語でスパイク)は泥がついている。ピッチに立った時泥のついたブーツを履いていたら試合をやる資格はない!」とか、「プレスアップ(腕立て)!ミスしたらどこでミスしたか覚えていろ!」など、当たり前のことを言って選手に喚起するのがビルであった。

 筆者の彼との出会いは1988年マツダの監督となる契約交渉が初めてであるが、あれこれネゴるタイプの人間ではなく、彼の真骨頂は「わかった。OKだ。」と、よいと思ったら即決、それに挑戦する気概を持った人間でもあった。以来25年にわたる交友関係も残念ながら終わりを告げた。

 大選手でありながら、謙虚でおごったことはなく、トップの人間にも、若い少年にも同じような温かい眼差しを注ぐ彼の人柄は誰からも愛されていた。

 ここ数年はアルツハイマーの気があり、マンチェスターで養生していたが、また一つのLegendが逝ってしまったのは残念である。合掌!


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08    :JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
伊藤 庸夫