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ヨーロッパサッカー回廊『ひっそりと始まった英国フットボール』

12・09・19
 1か月半にも及ぶオリンピック、そしてそれ以上に現地で盛り上がったパラリンピックもやっと秋の気配が漂う9月9日終了した。

 今年は6月の女王就任60周年を祝うダイヤモンドジュブリーに始まり、7月、恒例のウインブルドンテニスでは1936年以来76年振りの優勝に期待のかかった英国人(スコットランド人)のアンディ・マレーが準優勝(後のオリンピックではウィンブルドンの地で優勝)。オリンピック直前、伝統のザ・オープンゴルフではエリス(南ア)が優勝したが、7月13日より9月8日まで1か月半にわたるプロム(クラシック音楽祭としては最大の期間を要する)がオリンピックと平行して音楽ファンを盛り上げた。スコットランドではミリタリータットーが世界中の観光客を集め、大きなイベントが目白押し、正にBritish yearの感を呈した。

 6,000万人の英国民は政治の混乱、ユーロ危機の影響からの景気の後退、先行き見えない12年後半、そして13年に向け、いやなことは忘れ、お祭り騒ぎで憂さを晴らし、精一杯楽しんで、次の課題に挑戦する力を蓄えたいとする3か月半の夏休みであった。

 その間フットボールはどこへ行ってしまったのか。皆関心を持ちながら感動とお祭り騒ぎの中で、通常は一面を飾る世界一のエンターテインメント性を持っている英国のフットボールは上記のお祭りイベントに隠れ、ひっそりとスタートせざるを得なかった。

 ちょうどオリンピックが終わった8月12日に毎年フットボールの開幕の前哨戦、恒例のコミュニテイ・シールドがバーミンガムのアストンビラのスタジアムで行われた。毎年の例でいえば、当然フットボールのメッカであるウエンブレーで行われるのが当たり前なのに、今回だけは地方で開催せざるを得なかった。昨年のプレミア優勝のマンチェスターシティとFAカップ優勝者のチェルシーが対戦。結果はマンチェスターシティがチェルシーを3−2と破ったが、観客数は36,394人と好カードの割には寂しい開幕戦であった。

 やはり国民の多くはオリンピックのフィナーレに関心を寄せたのであろう。マルチミリオンポンドを稼ぐプレミアの選手とオリンピックのため4年間わずかな援助に頼り、節制、訓練、遠征、記録をかけたオリンピアンとどちらが人間として尊敬に値するのかはっきりと認識出来たためもあるのではないか。人間は純粋さに惹かれる。その純粋さを求めると、たかがフットボールで週給20万ポンド(2600万円=年間12億4800万円)を稼ぐのは何か間違っているのではという感覚になるのは不思議ではない。

 そして15日にはイングランドのフレンドリーマッチがスイス、ベルンで行われた。ホッジソン監督が91年当時スイス代表監督であったこともあり、オリンピックの熱狂を避け、スイスでイタリアと対戦した。ユーロではPK戦で負けたイタリアとこれまたひっそりとキックオフ。第3国ということもあり観客は15,000人と少なく盛り上がりに欠けた試合は2−1で今度はイングランドがイタリアを破ったが、こちらもひっそりとしたフレンドリーマッチに終始した。

 そして18日プレミアが開幕、筆者はウエストハム対アストンビラ戦を観戦、貴賓席にはオリンピックメダリストの2人が地元出身ということで招待され、プレミア選手以上の喝采と尊敬を集めた。1966年ワールドカップ優勝の立役者ジェオフ・ハーストもウエストハムのOBとして貴賓席にいたが、金メダリストの中では影が薄い存在であった。

 そして更に29日よりはパラリンピックが始まった。このパラリンピックにはオリンピックでは切符が買えなかったロンドンっ子がスタジアムそしてパークを一目見ようとチケット確保に走り完売の盛況を示した。陸上ではメインスタジアムが連日満員の盛況を示し、パラリンピック史上最大の観客を飲み込んだのである。フットボールはどこかへ飛んで行ってしまったのである。

 31日はフットボール移籍ウインドウが閉まる日、多くの選手の売買交渉が締切の24時まで行われた。最終日補強したトップのクラブは昨年優勝のマンチェスターシティ、さすがアブダビの富豪がオーナーだけに金に糸目をつけず、インターミラノのブラジル代表マイコン、スペインの中盤ジャビ・ガルシアなどの選手を駆け込み移籍で獲得、総額3,700万ポンドを投資した。しかしこの移籍劇もパラリンピックの影で全体的には控えめで、ひっそりと行われた。

 パラリンピックたけなわの9月7日、2014年ブラジルW杯予選がヨーロッパでも始まった。イングランドはアウエーでモルドバと対戦、5−0と圧勝したが英国人はパラリンピックの100m競争でブレードランナーのオスカー(南ア)が勝つのか、GB(グレートブリテン)のピーコックが勝つのかの方が関心度は高かった。結果はピーコックが優勝、英国中がボルトの勝利以上に沸きに沸いた。そのパラリンピックも9日フィナーレとなり3か月半にわたる英国のイベントは終わった。

 現在オリンピック村はとりあえず閉鎖し、メインスタジアムを残すのかフットボールスタジアムとしてウエストハムへ売り渡すのかなどオリンピック遺産をどうするのかが課題となっており、世界の人々を感動の渦に巻き込んだ祭典は終了した。

 やっとこれで、フットボールに人もジャーナリストも戻ってくるのではと思われるが、オリンピック、パラリンピックを通じて、人間の限界への挑戦、特に身体障害者でも大手を振って歩ける社会への実現という現象を体験した現在、これからのフットボールの在り方に警鐘を鳴らす2012年夏となったといえよう。もう一度原点に戻り、マネーだけではなく、スポーツとしてのフットボールを見直す良い機会になったのではないだろうか―。


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08    :JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
現在:T M ITO Ltd.(UK)代表取締役
伊藤 庸夫