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ヨーロッパサッカー回廊『アレックス・ファーガソン監督25周年』

11・11・13
 マンチェスターユナイテッド(MU)の監督サー・アレックス・ファーガソンが1986年監督就任以来25年を迎えた。11月5日ホーム、満員のオールドトラフォードスタジアムにサンダーランドを迎え1−0と勝ち25周年記念の勝利を飾った。

 この25年間ファーガソンが獲得したトロフィーは次の通り37回と、これまた歴代の監督を圧する記録である。
 クラブ・ワールドカップ2回(99,08年)
 スーパーカップ1回(91年)
 カップ・ウイナーズカップ1回(91年)
 チャンピオンズリーグ2回(99,08年)
 コミュニテイシールド10回(90,93,94,96,97,03,07,08,10,11 年)
 リーグカップ4回(92,06,09,10年)
 FAカップ5回(90,94,96,99,04年)
 プレミアリーグ12回(93,94,96,97,99,00,01,03,07,08,09,11年)

 なぜこれだけの長期間世界のトップクラブの監督として君臨しタイトルを取り続けたのであろうか。

 彼が監督として認められたのは1983年のヨーロッパ・カップウイナーズ・カップの決勝でスコットランドのアバディーンがファーガソン監督の采配でレアルマドリッドを2−1と番狂わせで破って以来である。選手時代はグラスゴーの造船所で働く無名の選手であった彼の監督としての才能を見出したのは同じスコッテッシュのジャック・ステイン代表監督であった。そのステイン監督はファーガソンを代表チームのアシスタントコーチとして任命し、いかに選手に自信を持たせその持ち分を最大限に発揮できるかを身をもって伝授したのである(そのステイン監督は1985年カーデイフでの試合中倒れ息を引き取った。ファーガソンはその時はアシスタントであった)。

 そしてその3年後1986年、当時1968年ヨーロッパ選手権で優勝して以来低迷していた名門MUの指揮官として招請されたのである。

 彼がMUで何をしたかは過去の戦績で明らかであるが、筆者が89年のMU日本遠征(テレビ東京創立25周年記念イベント)に同行し、日々彼の言動を通訳しているなかで際立っていたのは次のことであった。

 「強いチームを作るには若い新鮮な力が必要である。もちろん既存のベテラン選手も必要ではあるが、ユースの選手を見て、そこに宝が埋もれていないかを常に見ていることも監督の役目である。そして彼らの才能を試し育てていくのが監督の使命である。」と言っていた言葉を思い出す。彼は来日中、東京での200有余の少年のクリニックで当時若手のマーク・ヒューズ選手を連れてきて少年たちを指導した。

 そこではヒューズ選手に様々なアクロバチックなプレー(バイスクルキックでのシュートとか)を披露させ少年たちを魅了させた。その時ファーガソン監督が言った言葉は新鮮であった。「君達の年代にしか出来ないプレーを今のうちに見につけなさい。そのために見本を良く見てそれが出来るまで練習してください」と。

 そして当時の日本代表との試合では19歳のマーク・ロビンスを起用、彼が決勝ゴールを決め勝った。競技場は今では信じられないと思うが神宮の人工芝野球場(それも初期のつるつるの人工芝)での試合であった。「試合の会場はどこでも良い。我々はアウエーであり、どんな不利な条件でも勝つサッカーをするのだ」と言うのが彼の哲学でもあった。

 そしてマンチェスターに戻り、目をつけたのがその後ゴールデンエイジと呼ばれたギッグス、ネビル兄弟、ベッカム、スコールズ、バットといったユースの選手であった。92年のユースカップに優勝した彼らを常勝ユナイテッドの中軸として育てていったことはMUの歴史を見れば一目瞭然である。彼らユースを起用するに当たってファーガソンが補強したのは決して名前の売れたトップ選手ではなく、ワークホリックなチームプレーヤーであった。

 その一例はリーズからカントナ(当時フランス代表から外れていた)を獲得したことであろう。彼はクリスタルパレスの試合で観客にカンフーキックを加え7か月も出場停止にはなったが、彼なくしてベストクロッサーの異名をもつベッカムは生まれてこなかったといわれている。

 MUのトレーニンググラウンドの通称「クリフ」には、ファーガソン監督室はピッチが見通せる2階部分にあった。練習が終わってもファーガソンはその監督室から誰が居残り練習をしているのか見守っていたのである。毎日、全体練習が終わった後いつもカントナはユース選手であったベッカムにクロスを蹴らせ、シュート練習をしていた。カントナの要求は厳しい。カントナが動いた頭に、胸に、そして右足にドンピシャでベッカムはクロスを上げなければならない。それも相手ディフェンダーを超えての早いボールでのクロスを1日何百本と繰り返していたのである。カントナが居なければベッカム=ベストクロッサーは生まれなかったであろうといわれている。

 またノルウエー代表ストライカー、ソルシア(スールシャール)もこの「クリフ」での申し子であった。いつもGKとディフェンダーを付け数百本ものシュート練習をしていたことが99年のチャンピオンズカップ決勝戦、対バイエルンミュンヘン戦での決勝ゴールを生んだのである。その「クリフ」での居残り練習をじっと見つめていたのがファーガソン監督であった。

 MUの強さは個人の練習にあるともいわれているが、現在もMUの顔として君臨するサー・ボビー・チャールトンは「私は右足が利き足であったがクリフの壁に毎日500本は右、左とシュート練習を繰り返し、左足のキャノンシュートが得意と言われるようになったのだ」と言う伝統が残っているからに他ならない。その努力を影でじっと見つめる監督がいたからであろう。しかしファーガソン監督のすごさは、たとえベッカムでさえ、スター気取りでファッションの世界に足を踏み込んだ時には、ヘアードレッサーを蹴っ飛ばしてベッカムを直撃、結局移籍させてしまった有名な話でも分かるように、チーム第一の意識を常に持つことと選手に植え付けたことである。更にクリスチャン・ロナウドも移籍させても動じない確固としたチーム作りが彼の頭の中には詰まっているのであろう。

 今シーズンのMUも世代交代の時期にきておりゴールデンエイジのネビル兄とスコールズが引退したが、若手ウエルベック、クレベリー、ラファエル、ジョーンズ、スモーリングと言ったU21の選手を勇断を持って起用、台頭させたのもファーガソン監督のこれからのMUという将来像を見据えての施策であろう。過去1958年のミュンヘン航空機事故で8人もの選手を亡くした当時のマット・ブスビー監督の若手起用でよみがえった伝統を継承しているのである。

 もうすぐ70歳となり日本流で言えばまさしく古希(古来稀なる仁)を迎えるファーガソンがまた新たな挑戦をしているのである。それにしてもプレミアでの監督平均寿命はわずか3年と言われる中での長期政権継続の秘密は何であろうか。英断を持って若手起用しチームを活性化させるまれなる能力を持っているからに違いない。今シーズンのファーガソン監督の手腕に注目しよう。


◆筆者プロフィル◆
伊藤庸夫(いとうつねお)
東京都生まれ
浦和高校、京都大学、三菱重工(日本リーグ)でプレー、1980年より英国在住
1980−89:日本サッカー協会国際委員(英国在住)
  89−04:日本サッカー協会欧州代表
  94−96:サンフレッチェ広島強化国際部長
2004−06:びわこ成蹊スポーツ大学教授
  08    :JFL評議委員会議長(SAGAWA SHIGA FC GM)
現在:T M ITO Ltd.(UK)代表取締役
伊藤 庸夫